大型本 白旗史朗ヒマラヤ白籏史朗山岳写真集解説115カンチェンジュンガエベレストマカルーマナスルアンナプルナダウラギリヌプツェローツェの詳細情報
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絶版大型写真集白旗史朗ネパールヒマラヤ
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カンチェンジュンガ山群
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マカルー 商品説明文に画像多数掲載
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ローツェ
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プモ・リ、アマ・ダブラム
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ヒマラヤひだの無名峰
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チョ・オユー
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ギャチュン・カン
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アンナプルナⅡ峰とⅣ峰
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マチャプチャレ
。ボッシュ≪黄昏の叙情≫パステル。中国黄山 HUANGSHAN IN CHINA 華塾出版社 1980/5 本953。☆坂本万七遺作写真集 沖縄 ・ 昭和10年代 新星図書出版 発行 【沖縄・琉球・歴史・文化】。激レア☆黄山神韻―汪蕪生 山水写真集。禅 求道者 森谷洋至写真集 署名入り 淡交社 1998年 【74】。2B2-5 (山の意匠 田淵行男写真集) 函付 写真集 朝日新聞社 風景 田淵行男。木村伊兵衛写真集・パリ/日本写真家協会初代会長・ライカを駆使し対象をリアルにとらえるスナップ的手法を確立・肖像写真や報道写真で注目。【洋書】Autrefois la FRANCE。洋書◆上空から撮影したスイス写真集 本 風景 景色 自然。送料込◆宮本常一 写真・日記集成 上下別巻 附録揃◆宮本常一、毎日新聞社、2005年/T577。大型本 白旗史朗ヒマラヤ白籏史朗山岳写真集解説115カンチェンジュンガエベレストマカルーマナスルアンナプルナダウラギリヌプツェローツェ。【ARS書店】『Caravans of the Himalaya』ヒマラヤで、砂漠などを隊を組んで通行する商人の集団・発行:Natl Geographic SocietyS。土門拳 風景 総原色図版写真集 矢来書院 118ページ 昭和53年8月10日発行。山の意匠 田淵行男写真集 著者 田淵行男 作品と解説 春の山 天狗原 七つの峰 山の紋章 山の衣裳他 朝日新聞社 昭和46年カバー付 2501-009L。I20-157 札幌から見える山 朝比奈英三・鮫島惇一郎編 北海道大学図書刊行会。岡田紅陽 私的 写真集 写真 12枚 和田英作先生へ 直筆署名入り この世に1つしかありません。やや小高くなったモレーンの上は絶好の展望台で、北にはジョンサン・ビーク、東方一帯にはピラミッド・ピークからテント・ピークが見え、南方には目的のカンチェンジュンガ山群の大パノラマがある。手前のツインズからの北稜が高まる所、カンチェンジュンガ主峰から右にヤルン・カン、カンバチェンなどの雄峰がずらり並んでいる。※3月中旬4×5判90E6SL
4 ジャヌー北西面 Jannu,Northwest Face 7710m
ジャヌー北西面を狙うために、シャルプー南東後にルートを定める。カンパチェン部落からグンサ方面に戻り、対岸にジャヌー氷河の流入を見る辺りから取り付いた。登るにつれ、ジャヌー氷河の蛇行がしだいに顕著になってくる。左岸に起伏する岩稜の最も奥に強立するジャヌーは、昨夜の降雪を冠して中天にひときわ高い。全山岩と氷に鎧われた山体が午後の陽を浴びるとき、それはまさしく“怪峰”の異名のままで、見る人をして畏怖せしめるに足る迫力に満ちていた。
※3月中旬4×5判150E6SL
ほか
<マカルー山群>Makalu Region
マカルー山群は通常、クーンブ・ヒマールに包括されるが、その東端にあってバルン・コーラの両岸にわたり、マカルー8481にを中心に、マカルーII,チョモ・レンソ、バルンツエ、チャムランなどの7000m峰4座,6000m峰10数座をかぞえる一大山群として独立した位置を占めている。このすべての山に源をもつバルン・コーラは、チベットに発するアルン河の一大支流で、この山域の登山もほとんどこれを避っておこなわれる。マカルーにはネパールの山の測量順位によるビーク」の名があるが、この流域のピークにはいまだに正式な呼称がなく、この順位によるピーク3からピーク7までの山、そのほかチャゴ、ペタンツェ、ピラミッド・ピーク、チョー・ポルなどが主要なピークとしてかぞえられる。
16 マカルー Makalu 8481m
世界第5位の高峰マカルーの初登項は1955年のフランス隊で、北面ルートによる全員登項という快挙であった。その後イギリス隊は敗退し、1970年、日本山岳会東海支部隊による東南稜からのアタックが初登頂から15年ぶりにおこなわれ、同5月23日、見事登頂に成功した。バルン谷4800mのベース・キャンプは、その長大なマカルー東南稜の全貌を展望するに絶好のアングルであり、同時に南西稜、南壁、西稜と3つのバリエーション・ルート、および壮大なマカルーのアイスフォールが一望される好位置にある。※4月下旬4×5150E6SL
ほか
<クーンブ・ヒマール ロールワリン・ヒマール>
Khumbu Himal,Rolwaling Himal
世界最高峰エベレストを中心とするクーンブ・ヒマールは、ドゥド・コシの上流とイムジヤ・コーラの源流一帯に位置する山群で、東はマカルー山群に接し、西はポーテ・コシでロールワリン・ヒマールと画されている。ネパールの8000m峰9座のうち、エベレスト、ローツェ、ローツェ・シャール、チョー・オューにマカルーを加えた5座までがここにある。テープ補修跡あり。一方、ロールワリンはタンパ・コシ上流のボーテ・コシとクーンプのポーテ・コシに挟まれるロールワリン・チューの南北に位置する山群で、メンルンツェ(ジョボ・ガル)とガウリサンカールの2つの7000m峰のほか、無数の6000m峰を擁して北に延び、ナンバ・ラでチョー・オューを通ってきたチベット国境に連結している。
25 クーンブ氷河とエベレスト Khumbu Glacier,Mt.Everest 8848m
カラ・パタール5545メートルから見下ろすクーンブ氷河と見上げるエベレスト、その左手にはチベット側のチャンツェも見える。ゴラク・シェブ南方のチャングリ氷河末端に張ったテントからこのピークに登り、日没後駆け下りるのが日課になってしまい、最初50分かかって登ったのが、1日ごとにタイムが短縮し、ついに30分になった。クーンプ氷河が右に折れ、山ひだに挟まれて上昇した頂点がエベレストである。初登頂は1953年。もとよりイギリス隊で10度にわたる遠征の末、ヒラリーとシェルパのテンジンの2人が頂上を踏んだ。※11月下旬4×5150E6SL
26 エベレスト Mt.Everest 8848m
イギリス隊の初登頂ののち、1956年スイス隊、1960年北面からの中国隊、1963年アメリカ隊ほか、続々とこの世界最高峰は登られた。さらにインド、日本、日本女子、ニュージーランド、韓国その他、多くの隊がエベレストの登頂に成功している。ここゴーキョ・ピーク(5483m)から見るエベレストには、それら多くの隊が登ったルートを指摘することができる。このゴーキョ・ピークも1度目は往復して日没まで待ち、2度目は山頂に3夜を過ごしてエベレストを狙った。笠雲浮かぶエベレストの右の山はヌプツェとローツェである。※11月下旬4×5600E6SL
27 ヌプツェ西面 Nuptse,West Face 7879m
ヌプフェは世界第26位の離峰で、エベレストのサウス・コルの南方、ローツェから西に大きく延びる稜線上にあり、7000m峰4座をもっている。ヌプは西、ツェは峰、つまりエベレストの西峰の意味をもつ山名である。初登頂は1961年のイギリス隊で、第2登も同時になされた。1977年、登歩渓流会隊が挑戦したが、このカラ・バタールから見える北西峰(7745m)に登っただけで、これから東に連なる西峰(7795m)と主峰には至らなかった。主峰の旧高度は7833mであったが、現在は7879mに統一されている。※11月下旬4×5300,E6SL
29 ローツェ Lhotse 8511m
この山名も、ロー(南)ツェ(緑)、すなわちエベレストの南峰の意味である。これは1921年、イギリスのエベレスト隊が命名した。エベレスト、K2、カンチェンジュンガに次ぐ世界第4位のローツェ初登頂は、1956年のスイス除で、その後1977年、ドイッ除が登頂に成功した。日本からは1973年、神奈川岳連隊が南壁からのアタックを試みたが雪崩や落石がひどく断念。1981年、ユーゴスラビア隊が南壁の壁には成功したが、登項には至っていない。チェクンから見る3000mのローツェ南壁にはほとんど雪がついていない。
11月中4×5430RDSL+PL
31 クーンブ氷河とプモ・リ Khumbu Glacier,Pumo Ri 7145m
プモ・リという山名は“乙女の峰”という意味で、1924年、エベレストで行方不明になったイギリス隊のマロリーが命名した。この山の初登頂は1962年のドイツ・スイス合同隊で、1953年、インド隊が試みて失敗したリントレンのコルから、北東稜を忠実にたどって頂上に立った。第2登はフランスのシャモニ登山学校隊で、これは富士宮山岳会隊が失敗した南東稜からである。クーンブ氷河のセラックの間からは、7000mを超えているとはとうてい思えないほど間近に、プモ・リの南東面が見上げられた。※11月下旬4×5判180E6SL
33 アマ・ダブラム Ama Dablam 6856m
“巨人の牙”と別名があるアマ・ダブラムの最も典型的な山容を眺めるには、タンポチェがよい。左に6135m峰をもつ西稜を延ばし、やや右に反り身になった、おなじみの姿である。標高は7000mに足らないのにこの山が有名なのは、この独特で悪絶な山容と、イムジヤ・コーラ沿いのどこからでも見ることができる故であろう。アマ・ダブラムとは“母の首飾り”という意味をもち、初登頂はイギリス。1960年のことだが、無許可であった。1980年秋、日本のイエティ同人隊が北東壁に挑み、見事これに成功している。
39 ヒマラヤひだの無名峰 Unnamed Peak 6430m,ChhukhungGlacier
アマ・ダブラムから東につづく稜線はアンプ・ラブツァからバルンツェにつづいているが、この間、7つの6000m峰がある。この7峰のうち最初の6340m峰のみ、プマ・ダブラム(娘の首飾り)という山名があるだけで、あとの6430m、6246,6146,6238,6205,6840mの6峰は無名峰である。最後の6840m峰を除き、ほかの5つの峰はアマ・タブラム氷河に隣接するチュクン氷河の源頭の峰で、そのヒマラヤひだの美しさはヒマラヤ中随一といってよい。この6430m峰はほかの峰々に比べ標高差があるので、ことに美しい眺めだ。※11月中旬4×5400E6SL
40 カンテガと無名峰群 Kantega 6779m,Unnamed Peaks
カンテガとは“雪の鞍”という意味で、タンポチェ辺りから見る山頂付近の形は、馬の背につける鞍に非常によく似ている。このカンテガから東北東に延びる稜線が、北から北西に転じてアマ・ダブラムに接続する間には6000m峰が数峰あるが、それらはすべて無名峰である。ペリチェから上流に進み、ドゥグラを過ぎる辺りから、それらの無名峰が前山の上に頭をのぞかせてくる。おそらくは未踏の山頂であろうと思われるこれら美しい雪の山頂には、ヒマラヤニストの憧れをかき立てる何かがある。※11月中旬4×5判210E6SL
41 チョ・オユー Cho Oyu 8153m
ドゥド・コシの源流である長大なゴジュンバ氷河の最奥所に、ゴジュンバ・カン、ギャチュン・カンとともに東西に連なる8000m峰である。“トルコ玉の女神”という美しい山名であるが、ゴーキョから見る山体は堂々として“青い巨人”の方がふさわしい。。庭の憂 古川三盛著 寺の庭写真集・著者随筆付 観心寺雲心亭 中宮寺奥庭 寂庵他 善本社 平成9年 初版 カバー付 2501-006M。J04-022 岩田孝八写真集 ゆるやかな時間 非売品。洋書◆アンセル・アダムス写真集 ヨセミテと光の山脈 本 自然 風景 景色。美しきアルプス 小森 康行 214ページ 昭和51年7月1日発行 ヨーロッパの名峰。Fremantle Life In The PortCity 英語版 Roger Garwo。題名:日本の山河 作者:緑川 洋一 出版社:矢来書院 サイズ:370×268×32 215ページ 発行日:昭和50年11月10 風景写真集 総原色図版。J19-063 立山・黒部のすべて スタンプ捺印あり、発行年月日不明。I20-107 別冊 山と溪谷 1994 奥田實/大雪山の花 記名塗りつぶしあり。J19-096 大地のおくりもの 吉本良二写真集。★ マッターホルンパノラマ写真 エミールシュルテス Emil Schulthess 1974年9月撮影 ★。EIJUN 永順 野の花の旅から 西オーストラリアに魅せられて 写真とエッセイ 著者 高橋永順 中央公論新社 2000年 初版 カバー付 2501-007M。J15-074 写真集 積丹 神々のいる岬 金澤 靜司。J19-084 縄田頼信写真集 ニュージーランドに恋して 巻頭に著者と思わしきサインあり。日本の庭 (名園編・作庭編・素材編/全2冊セット)毎日新聞社 昭和50年 監修:重森三玲。H23-002 世界の秘境 日本通信教育連盟 3冊セット 箱カバーに汚れ傷角破れ多数あり。。H11-063 日本の国立公園 学研。世界百名山 白川義員作品集(Ⅰ) 白川義員。木村伊兵衛のパリ/木村伊兵衛【著】。H05-016 PHOTONICA 南半球時間 フォトニカ四 パート1 押印複数あり。写真アルバム 松山市の昭和 愛媛県 樹林舎 2015 大型本 郷土本 郷土史 歴史 日本史 記録写真集。小傷み 辻勲原種カトレアの世界 南米への熱き想い。★初版 『 里山は未来の風景(全4巻セット) 』 今森光彦 金の星社。c21a 白川義員作品集 永遠の日本 小学館。世界百名山 II: パキスタン・ヨーロッパアルプス他 白川義員作品。渡辺義雄写真集 日本の塔 信仰とその象徴 毎日新聞社 本。絶版 尾道…セピア色の記憶 過去と現在をゆく今昔散策。幻のネイチャーフォトグラファー木原和人直筆識語入りサイン[光と風の季節]日本カメラ社重版 美本 夢枕獏絶賛カメラマン 一村哲也。H01-015 赤れんが北海道庁旧本庁舎写真集。送料無料 TIME LIFE【未踏の大自然】10冊。世界百名山 白川義員作品集(III) インド 中国ほか/白川義員(著者)。愛蔵版 ふるさと写真館/北国新聞社。[初版・レア本] ヘリコミが飛ぶ 東京の小離島 利島 御蔵島 青ヶ島 東京。S’特別限定版/森山大道【著】。洋書◆フェズ写真集 芸術と知識の街 本 フェス イスラム 建物 風景 景色。われら地球人 三輪晃久写真集/三輪晃久【著】。【限定1000部/謹呈本/署名入】『白籏史朗写真集のTHE GREAT KARAKORAM 』/東京新聞出版局/1997年/二重函/Y12348/mm*24_8/74-03-1A。東大寺 入江泰吉写真集/入江泰吉【著】。【謹呈本/署名入】『白川義員作品集 仏教伝来 全3冊揃』/学習研究社/1987年~/二重函/Y12404/mm*24_8/74-03-1A。写真集ネパールヒマラヤ/白籏史朗(著者)。白籏史朗 魅せられし山々/白籏史朗【著】。写真集 三養荘/畑亮夫(その他)。ボッシュ≪黄昏の叙情≫パステル。中国黄山 HUANGSHAN IN CHINA 華塾出版社 1980/5 本953。☆坂本万七遺作写真集 沖縄 ・ 昭和10年代 新星図書出版 発行 【沖縄・琉球・歴史・文化】。激レア☆黄山神韻―汪蕪生 山水写真集。禅 求道者 森谷洋至写真集 署名入り 淡交社 1998年 【74】。2B2-5 (山の意匠 田淵行男写真集) 函付 写真集 朝日新聞社 風景 田淵行男。木村伊兵衛写真集・パリ/日本写真家協会初代会長・ライカを駆使し対象をリアルにとらえるスナップ的手法を確立・肖像写真や報道写真で注目。【洋書】Autrefois la FRANCE。洋書◆上空から撮影したスイス写真集 本 風景 景色 自然。送料込◆宮本常一 写真・日記集成 上下別巻 附録揃◆宮本常一、毎日新聞社、2005年/T577。大型本 白旗史朗ヒマラヤ白籏史朗山岳写真集解説115カンチェンジュンガエベレストマカルーマナスルアンナプルナダウラギリヌプツェローツェ。【ARS書店】『Caravans of the Himalaya』ヒマラヤで、砂漠などを隊を組んで通行する商人の集団・発行:Natl Geographic SocietyS。土門拳 風景 総原色図版写真集 矢来書院 118ページ 昭和53年8月10日発行。山の意匠 田淵行男写真集 著者 田淵行男 作品と解説 春の山 天狗原 七つの峰 山の紋章 山の衣裳他 朝日新聞社 昭和46年カバー付 2501-009L。I20-157 札幌から見える山 朝比奈英三・鮫島惇一郎編 北海道大学図書刊行会。岡田紅陽 私的 写真集 写真 12枚 和田英作先生へ 直筆署名入り この世に1つしかありません。
95 ダウラギリⅠ峰とトゥクチェ・ビーク DhaulagiriⅠ 8167m,Tukuche Peak 6920m
ゴラパニから北方へ、シャクナゲの密林を下っていくとプダレからチトレとなって、山々の展望が開ける。3番目の村はシカ・パラテ、そしてシカの村へと下りはなおもつづいていく。シカはパラテのほか、デオラリ、ウーポルロ、トロと冠する4つの集落で構成されていて、いずれの集落からもダウラギリ方面の展望が欲しいままにできる。ことにこのシカ・デオラリを前景にした辺りは思わず足を止めて眺め入るほどにすばらしい。山国ネパールの雰囲気を見事に、余すところなく表している。※11月中旬4×5240、RDPSL
ほか
<西ネパールの山々>
West Nepal
西ネパールで最も知られた山はアピ、ナンパ、サイパルである。最高峰はアピの7132mであり、第2位はサイパルの7031mである。第3位のカンジロバ、第4位のジェティボフラ二、第5位のボバイエとつづくが、アピとサイパル以外はみな6800m以上あるのに、第6位のナンパ(6754m)ほどにも知られていない。アピとナンパは最も西に位置し、次いでサイパル、カンジロバの順になるが、各山群の間は大きく離れている上、山群そのものもダウラギリ以東の各ヒマールに比べるとまことに小さい。しかし、アプローチははるかに長く、ルートも判然としない上、キャラバン出発地までの交通事情、食料事情も悪く、ポーターも少なく、質が悪い。西ネパールに入る人が少ないのはこうした事情によるのだろう。
108 アピ Api 7132m
チャムリア・コーラ沿いに高巻きやトラバース、渡橋を繰り返してグサ・マルマを過ぎる。グサから奥も上下がつづくが、道はやがてチャムリアの源流帯に下りる。通常なら2日で軽く行き着けるここパウレまでも、ラッセルと積雪に押し伏せられた竹の密叢や灌木帯の通過に時間をとられ、4日を要した。なにしろびっしりとルートをふさぐ竹や大人の太ももほどもある立木をククリ(山刀)で切り開いての行進なのである。テープ補修跡あり。初登頂は1960年春,同志社大学山岳会隊が北面からアタック、成功した。第2登はまだ成されていない。※2月上旬4×5400E6SL
ほか
【ネパール・ヒマラヤ取材記】より一部紹介
不便な交通事情
ネパール・ヒマラヤの全域撮影という、いま振り返ってみれば無謀にも思える計画を立てたのは、もう数年が過ぎたヨーロッパ・アルプス取材のときだった。広いといっても、たかが北海道の2倍程度の面積しかないネパールの国土、ヒマラヤはそのうちの一部ではないか、と考えたのがそもそものまちがいの始まりであった。ネパール14州のうち、北方チベットに境を接する10州にまたがるヒマラヤは、その州の数のまま10のゾーンに大別されているといってよく、ヨーロッパ・アルプスのように各山域を連結・連続して取材する、などということはとうていできない相談であった。
その最大のネックは交通である。ネパールの首都カトマンドゥから、第2の都ポカラとの間に車のかよう道路ができたのが5年足らず前、現在、各地で道路建設がさかんにおこなわれているとはいっても、日本や他の国々のような機械力にはよらず、すべて人力に頼るこの国の工事では、ネパール全土に車道が行き渡るのは、どう少なく見積もっても100年以上かかるだろうと思われるスローモーぶりである。したがって、取材はバス、ジープをでき得るかぎり利用し、あとは自分の足ということになるが、それが1回の取材を最低1ヵ月、長ければ2ヵ月を超える長期間の旅とする最大の原因であった。だが、そうした車を利用できる所でも、東部のカンチェンジュンガやマカルーは、そこからやっと山が見えるという場所までも15日以上、ベース・キャンプまでは20日間以上のキャラバンが必要とされるのである。(以下略)
【あとがき】
3年間にわたるネパール・ヒマラヤの撮影取材もどうやら無事に終わった。いくらスケジュールを立てても、最初のころはいつこのネパール行脚が終わるか五里霧中で、1年2年は延長も止むを得まいと考えていた。幸いにして何の事故もなく終了してみると、今度は意外と呆気なかったようにも思えるから不思議である。もっとも3年間といっても、実際は2年と6ヵ月の間に取材は終了し、そのうち、ネパール滞在は正味18ヵ月、560日足らずである。つまり1年半ネパールで暮らし、1年は日本にいたことになる。だが、その間、日本での入山日数を加算すると自宅にいたのはたった9ヵ月ばかりに減ってしまう。いきおい時間が足らなくなり、時間に追われることになったため、あっという間に過ぎてしまったと感ずるのだろう。それにしても、ネパールの東から西のはずれまで、くまなくとまではいえないまでも、そのほとんどを自分の足で歩きとおすことができたのはまたとない体験となった。どうしても入ることのできない地域もあったが、それはネパールの内政事情によるもので、そうした地域が、ヒマラヤとあまり関係ない場所であったことも好運であった。シッキムと境を接するカンチェンジュンガ山域から、ガルワールに至るアピ山域まで、グレート・ヒマラヤの谷に沿い、尾根を越え、縦横に歩いた距離は、およそ12000kmにも達するもので、これはネパールの首都カトマンドゥから東京を直線で結んだ距離の約2倍に相当する。その間、標高200mのテライの平野から6000m以上の高地までは必ず数回の峠越えがあり、折角かせいだ高度をアッという間に失い、また最初から出直しとなるのがキャラバンの通例であった。キャラバンに雇用するポーターも少ないときで10人、多いときは50人にものぼった。シェルバも同様で、奥地に深く入る必要があればあるだけ食料や装備がかさみ、ポーターの数が増え、それを管理し、高所への荷上げのためにシェルパも多くなるのである。メンバー、リエゾン・オフィサー、シェルパ、キッチン、ポーターの合計で60人以上というときさえあった。こうした中で、カメラとフィルムの携行・運搬にもっとも気を遣わされた。フィルムは熱を加えないようにするため断熱材で梱包、休憩時は日陰に置くよう申し渡しても、監視のシェルパさえすぐに忘れてしまうし、これらの機材・フィルムを最優先で強いポーターに背負わせることさえままならなかった。スリップや転倒、休息時にカメラやフィルムがあやうく失われそうになったことも何度かあり、ガネッシュ南面での下山ではポーターがスリップして、フィルム・トランクが滝下に落ち、撮影済みフィルムが水に浸かったことさえあった。(以下略)